「吉祥禅寺は往昔浅野家浪花に於いての菩提所なり故に君候義士等の石碑を建て追善供養を執行へり」
これは『攝津名所図会大成』巻の四、浅野候之墓と題した項の一節である。
万松山吉祥寺は、寛永七年(1630)三代将軍家光の時代に開創された禅刹である。その後荒廃するも、当山十一世住職として祖峰従謙和尚を播州赤穂より迎えるに至り、赤穂浅野家との繋がりを得て、以降吉祥寺大檀越としての協力を得て、復興の礎を築いたと伝えられている。
赤穂藩第三代藩主浅野内匠頭長矩候は、参勤交代のみならず、何かにつけてこの寺を訪れたと言われている。吉祥寺の山号も長矩候直々に与えられたものである。徳川家康創建、江戸三ヶ寺に数えられる高輪泉岳寺の「萬松山」という山号にあやかってか、長矩候は当寺に「万松山」という新字体の「万」の字を与えている。このことは、長矩候にとって機を見ては訪れられる程思い入れが強く、こよなく愛された寺であったと伝えられている所以でもあろう。
長矩候揮毫による「万松山」の山号。
長矩候が山号を与える際、紙の用意がなく、その用意までの時間が待てなかったため経机にそのまま筆を揮い、脚を払って裏面に署名して従謙和尚に与え、今よりこれを大事にするように命じたとの逸話が残っている。このエピソードからも伺えるように、多少短気なご性格であったことが後の刃傷沙汰に繋がっていくように思えてならない。
残念ながら戦火により消失してしまった。
現在は法堂入口頭上に写真が飾られている。
中央に浅野内匠頭長矩候の墓(五輪塔)、右に大石内蔵助の墓、左に大石主税の墓。その周りに義士たちの墓が、死してなお主人をお護りするように建てられている。
徳川家康創建で、徳川家の後ろ盾があった泉岳寺。元からの菩提寺である赤穂の花岳寺。長矩候以外に何の後ろ盾もなく盛衰を繰り返してきた吉祥寺。塩の商いを祈願する浅野家の寺、という解釈もあった用でもある。その時代その時代の住職の考えもあったであろう。しかし、どのような表現をされようとも「菩提寺」であったが故の四十七義士の墓碑であることは疑い無きことと言える。
吉祥寺の四十七義士の墓碑に関し、非常に興味深いことがある。四十六義士の供養を依頼したと記録に残っているにもかかわらず四十七ある墓碑。これは寺坂吉右衛門その人の謎でもある。
寺坂吉右衛門逃亡説というのは、近年では否定的な捉えられ方をしている。それにもしも寺坂が逃亡していたならば、吉祥寺に四十七士の墓は存在し得ない。
本来ならば同志とともに生死をともにしたい思いもあったであろうが、身分制度により(寺坂は足軽の身分であった)切腹も許されない。されば生きて、大石内蔵助の、四十六人の同志の、声なき声を世に伝えること。そして義士たちの菩提を懇ろに弔うこと。それが自分に課した武士道であったように想像する。
寺坂吉右衛門には東京の曹渓寺(臨済宗)、泉岳寺、そして吉祥寺からそれぞれいただいた三つの戒名があるが、生前に吉祥寺住職からいただいた「刃忠義劔信士」という名前には他の義士と同じ”刃”と”劔”の字が使われている。これこそ寺坂が逃亡などせず、ともに討ち入り、本懐を果たした一つの証でもあろう。
寺坂吉右衛門は晩年を先述の曹渓寺にて寺男としてその生涯を延享四年(1747年)に終えている。享年八十三歳であったが、吉祥寺の墓碑には没後何年かしてやっとその没年齢が刻まれたと残っている。当時の住職や浪花の人々のたくさんの思いが込められて建てられた墓碑であったことだろう。
当時の吉祥寺には、冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士(浅野長矩候)はじめ大石内蔵助、主税、萱野三平、天野屋利兵衛などの霊牌があり、また「斯る由緒の寺院なるが故に義士の遺墨遺具許多什物とする」とあり、討入以降四十七義士墓碑建立も合間って、たくさんの遺品が当時に集まり、毎年十二月十四日に法要を執り行い、その際にご開帳とにて展示し遺徳を偲んだと言われている。
また当山十五世大定慧海和尚により四十六義士の木造を建立したとある。こちらがその木造の写真である。のちに寺坂吉右衛門、萱野三平の二人を加え四十八義士としてお祀りされていたらしい。極彩色素晴らしい木像であったと言われている。塩を隠したとされる土蔵に、入りきらぬほどの数の遺品が保管されており、嘉永五年(1852年)に長矩候はじめ四十七義士の墓碑を再整備し、この年より昭和十九年十二月十四日まで毎年、その一部を公開し遺徳を偲んだと言われている。
昭和十六年太平洋戦争の開戦を受け、全体主義の象徴として四十七義士が利用されることとなる。”忠義”の言葉が捻じ曲げて利用され、間違った概念が一人歩きをし、国のため、天皇陛下のために死ぬことがお国のためであり忠義であるとされた。幕府の間違いを正さんとした四十七義士とは大違いである。当時の住職二十二世大安廣道和尚は不測の事態に備え義士の木像や遺品などを守るべく、その多くを京都の寺に疎開させ、十二月十四日の義士祭に吉祥寺に運び込むということを繰り返していた。戦時中、年々十二月十四日という日は特別な日となり、一般の人々より軍属や学校の生徒が集められて最敬礼を持って墓前に参拝し、義士の木像や遺品を閲覧した、と記録にある。
昭和十九年十二月十四日、終戦の前年、この年も疎開していた木像や遺品を吉祥寺に運びこみ、いつものように閲覧を済ませた後、疎開させようとしたが、終戦間近のことで京都までの交通手段もなく、不安を募らせたまま昭和二十年三月十四日、大阪大空襲の日を迎える。奇しくも旧暦、長矩公御命日未明の事であった。堂塔伽藍全て灰燼に帰し、義士の遺品、遺墨、長矩公含め寺坂吉右衛門持参の
内蔵助の書状、血判状、墓誌、木像、山門、寺号額などすべてのものを失うこととなる。残されたものは長矩公と四十七義士の墓碑、灯篭のみ。大安廣道和尚はその光景を見て、天を仰いで泣き叫び続けたと伝えられる。
戦後は「区画整理」の名の下、寺領を半分あまりに減らされ、道路造設という理由で長矩公と四十七義士の墓碑を削るとに命令が出された。その折に二十三世住職大晃竹甫和尚の妻であった千代子女史がブルドーザーの前に身を投げ出しこれを制止、そのおかげで墓碑を守ることができたのは有名な話である。千代子女史は二十二世住職の一人娘として大正十年に生を受け、終戦に至るまで吉祥寺の什物であった全ての遺品などを子供の頃から間近に見、触れてきた一人であった。戦争で全てを失い、たとえここで命を失おうとも墓碑だけは何としても守らねばならないという強い意志が彼女をしてそのような行動を起こさせたと聞き及ぶ。
占領軍の命により禁じられていた義士を思慕する行事も、昭和二十八年十二月十四日より大阪の有志たちの尽力により再開。なんとか守った墓前にて追福法要を行い、また子供らに討ち入りの装束を着せ「戦争のない住みよい大阪にしてください」と口上を述べさせ、府庁や市庁に討ち入りをする。そんな内容の祭りであった。二十三世住職大晃竹甫和尚の代に境内の整備も進み、本堂再建、山門建立、四十七義士石造建立のほか、四十七義士の浮世絵、屏風、絵画、博多人形の内蔵助像などの寄進も受けている。
今後は二十四世住職として、吉祥寺に四十七義士の墓が存することの意義、さらにはその遺徳を未来に伝えてゆくことに精進し、四十七義士の木像建立を含めた境内整備を進めることこそが私の使命であると考えている。義を重んじ忠に死した四十七義士の思い、そして何百年と彼らを思慕し続けてきた人々の思いが込められた吉祥寺の義士の墓。その思いを、私もまた命をかけて後世に伝え、守っていかなければならない。
上の写真は、戦災で焼失してしまった四十八義士の木像と山門の絵葉書。戦前にはこの絵葉書が売られていた。吉祥寺蔵。